不確かな果実

音楽と脳について研究しています。なぜ我々は音楽に感動するのか。

カナダ大学院留学記 ~2022年秋冬~

McMaster UniversityのDepartment of Psychology, Neuroscience, and Behaviorで研究をしています、坂本嵩です。留学開始からおよそ半年ほどたったこのタイミングで、自身の振り返りも兼ねて現在の状況や環境について書こうと思います。 本エントリーは、支援をいただいている中島記念国際交流財団の報告書を転載したものです。

大学院について

McMaster University / マクマスター大学

初回ということで、まずはMcMasterにまつわる数字を紹介をしようと思います。学部生が3万人ほど、大学院生は5000人ほど在籍しており、これは僕が学部・修士と在籍していた慶應義塾大学と似た数字です(学部3万、院生4500人)。理学科、工学科、健康科学科、人文学科、社会学科、そして経営学科(ビジネススクール)があり、自分は理学科の中の心理・神経・行動科学研究科に属しています。大きめな総合大学という感じですね。特に健康科学科やそこに含まれる看護学科が有名らしいです。

ランキングとしてカナダ国内4位、世界ランキング85位(THE)というところで、米国ではウィスコンシン大学マディソン校(THE世界ランキング81位)やエモリー大学(同82位)、アジアでは延世大学(同78位)などと肩を並べています。そしてresearch-intensive university(研究が盛んな大学)として4年連続カナダ一位に君臨しているらしいです。

国内では「研究力は高いが地味なガリ勉大学」というイメージを持たれているようで、例えば国内トップのトロント大が東大だとすれば、マクマスターは東北大や東工大といったところでしょうか(関係者の皆様、大変申し訳ございません)。後で紹介しますが、位置するハミルトン市が特別大都市という訳ではないことも関係していると思います。

また、これも後に触れますが自然保護区に隣接していて最高です。デスクから10分でオンタリオ湖周辺をハイキングできるのはたまりません。

キャンパスの写真。https://streetsoftoronto.com/more-than-90-years-later-mcmaster-university-is-returning-to-toronto/より。

オンタリオ湖に面するキャンパス(キャンパスは半分も映っていません)。

Department of Psychology, Neuroscience and Behavior / 心理・神経・行動科学研究科

Department of Psychology, Neuroscience and Behavior (以下PNB) は、その名の通り心理学、神経科学、行動科学に関するプログラムで、認知心理学に近いヒト神経科学からマウスを使う神経科学、動物心理学や進化心理学に至るまで様々な研究室があるのが特徴です。特に音楽神経科学および音楽心理学(Music Perception and Cognition)の分野に関しては世界有数の規模を誇り、ボストン、ロンドン、ドイツ、モントリオールなどの中心地に並ぶオンタリオ州(含ハミルトン)において中心的役割を果たしています。現在所属している研究室はオンタリオ州およびカナダ全土の研究者が中心に集う国際学会(Neuromusic Conference)を毎年で主催していることからも、その中心的立ち位置が見て取れます。

LIVELab

PNBの目玉になっているのが LIVELabという研究施設で、僕のボスでもある Laurel TrainorがDirectorを務めています。実験室外の環境で人の心と脳を計測することを目的にしており、100人規模のホールは50個以上のマイクおよびスピーカーで音響が完全にコントロールされており、演者および観客32人までの脳波・モーションキャプチャー心拍計測などの生理心理学指標を同時計測することができます。これにより、演者同士や観客間の動きや生理指標の連動などを研究するこが可能となっています。脳波の32人同時計測は正直前代未聞で意味わからないので、いつか自分も使いこなしたいです。

演奏をしながらモーションキャプチャ・脳波を計測する様子(https://hamiltonmusician.com/aifec-students-visit-mcmasters-livelab-facility/)。

McMaster Institute for Music and the Mind

また、McMaster Institute for Music and the Mind (MIMM) という枠組みで研究室が6-7つほど集結しており、音楽にまつわる発達神経科学・運動科学・ベイズ的な計算論的神経科学・瞳孔にかかわる生理心理学・脳波を用いた電気生理学・文化人類学的な心理学など、多種多様な分野が融合し交流する場ができあがっています。MIMM内の院生は特に仲が良く、研究室の垣根を飛び越えた交流が非常に盛んです(つまり飲み友・踊り友)。MIMM内でルームメイトを探すケースは非常に多く、僕のルームメイトたちもMIMM内の別研究室の院生です。

Trainor Lab.

Neuromusic ConferenceおよびMIMMで最も中心的な役割を果たすのが現所属のTrainor Lab. です。ボスのLaurel Trainorが分野の第一人者であるために必然的にいろいろな人が集結した結果としてオンタリオ州およびMcMasterが分野内で中心的な役割を担うようになったと言っても過言ではなく、そんな師匠の元および環境に身をおけるのは本当に幸運なことです。研究室の規模感としては割と大きめな方で、ポスドクが3人、博士学生が8人、そしてLIVELabと兼任のスタッフが5人います。また、それぞれのポスドクと博士学生が学部生の面倒を見る必要があり、今年は学部2-4年生を合わせると60人(!)も在籍しているようです。自分が面倒を見ているのは1人ですが、中には15人ほど学部生を抱えているメンバーもおり、もはや一つの研究室の規模になっています。

Laurelが凄いのは、ポスドクと博士学生が全員直下指導というところです。大きい研究室、特に講座制を設ける日本の研究室では大ボスの教授の下に助教や准教授がおり、更にその下のポスドクが博士学生を指導するという構造が珍しくありません。が、Laurelは院生8人に対して向き合い指導する時間を亜空間から捻出しています(どこにそんな時間があるんだ)。毎週誰か一人が進捗発表をする院生ポスドクミーティングのほかにも、1対1のミーティングを各自設定しています。ペースはプロジェクトの進捗状況と個人のスタイルにもよるのですが、1-4週間に一度という感じです。自分のプロジェクトは自分で進めて、ある程度まとまったらLaurelに共有相談をするスタイルになっており、これが僕にはかなりフィットしています。自分で考え、悩み、試行錯誤し、大きな分岐や詰まりをボスと考える、という自治意識の高さはとても心地が良いです。学生間、他研究室、他大学とのコラボも盛んで、僕は他の院生と共同でプロジェクトを進めています。

Trainor Labのメンバー。院生・ポスドク・スタッフと一部の学部生たちです。https://trainorlab.mcmaster.ca/people より

研究について

テーマの概要

自分は音楽神経科学の中でもAuditory Scene Analysisというテーマに着目しており、心・脳が複数の音源をどのように分離・統合しているかという問題を解いています。我々をとりまく環境には無数の音源が存在しますが、耳にインプットされる情報は一つの音の波でしかありません。一つの音源から複数の音源に分離するのは簡単なことではないはずなのですが、我々の脳はそれをいとも簡単にやってのけます。どのような音が分離されやすいか、統合されやすいかなどの問題は1970年代頃から心理学的アプローチにより解かれてきましたが、脳内で我々がどのように音源分離・統合をしているかの全容は明らかになっていません。

[ここから先はカット、詳しく知りたい方は学会で会いましょう]

進捗の様子

大まかな音源の分離・統合というテーマ自体は入学前からボスに提示されたものでしたが、実際の実験案・解析案に行き着くまでは5か月ほどかかりました。結構長いな、と思われるかもしれませんが、これくらい腰を据えてサーベイをし、全体像を描けたのはメリットだなと感じています。現在はパイロット実験の脳波解析および実験刺激作成に取り掛かっており、4月末にはデータが集まる予定です。その結果は8月に東京で開催されるInternational Conference for Music Perception and Cognitionで発表する予定です。

幸せな準備期間だった半面、研究室内では「ずっと論文読んでテーマ決めてるやつ」扱いだったので、自分の得意技である脳波解析をキャラとして認識されるまで時間がかかったのは少しデメリットでした。最近ようやく認識され始めてきましたが、戦力としてカウントされ始めるとやはりいろいろ楽というか、みんな友達なので居場所はあるんですがそれがより強固になるというか。自分以外のプロジェクトにも最初から参画してもよかったかなと思っています。

また、カナダの大学院の特色として講義がアメリカほど多くないことがあげられます。講義がほとんどないヨーロッパと、最初の1-2年を講義漬けにするアメリカのちょうど中間のようなシステムで、最低限の必修さえ履修すればあとは研究に集中できます。日本に似ているかもしれません。

生活について

ハミルトンについて

ハミルトン市は、トロントからアメリカ方向に1-2時間ほど運転した場所にあります。人口規模としてはカナダ9位の72万人で、そこそこの規模といえます(参考:日本ではさいたま市が9位、広島市が10位、仙台市が11位。熊本市相模原市岡山市が72万人前後。)。また、製鉄の街として発展した経緯があり、湖畔には工場が並びます。ブルーカラーワーカーと学生の街、という感じで、トロントベッドタウンという特性も持ち合わせています。こうした雰囲気、規模を考えると、トロントを東京だとすれば川崎や広島のような位置付けの街なのかな、と思います。治安は決して悪くなく、ホームレスはちょくちょくいるものの身の危険を感じることはありません。ここはアメリカとの大きな違いで、銃社会ではないことの最大のメリットです。

また、ナイアガラにも近く、ナイアガラ断層が走っているため市内に100個ほど滝があることは大きな魅力です。キャンパスから車で15分ほどいけば滝のハイキングコースがあります。滝以外にも自然が豊富で、キャンパスには自然保護区が隣接しておりハイキングはもちろん調査研究が行われています。

気候もそんなに悪くなく、カナダではほぼ最南端に位置するため冬は比較的温暖です。特にオンタリオ湖の入り組んだ形に影響されハミルトン市周辺は温暖な空気が流れ込む構造となっており、雪はあまり降らず、冬は-10~0度近辺で気温が停滞します(たまに-20度前後の寒波は来ますが)。2時間車でいくと、緯度が変わらないバファロー市が極寒豪雪地帯になっているので、オンタリオ湖の気候は面白いなと思っています。

食事について

カナダで美味しいものはドーナツ・ピザ・地ビールプーティーンです。プーティーンってなんぞや、と思われるかもしれませんが、カナダ発祥のカナダ国民食、朝にも昼にもおやつにも夜にもおつまみにも夜食にも飲んだあとの締めにも食べられる万能食です。その正体は「フライドポテトにチーズカードとグレービーをかけたもの」と割とシンプルなのですが、チーズカードが絶妙に柔らかすぎない溶け方をする中でしょっぱいソースが脂っこいポテトと最高にマッチするのです。グレービーの他にもBBQソースなどの派生もあり、チキンやポークみたいな具が乗ってることも多々あります。僕のお気に入りは近所のパブのスモークbbqポークプーティーンです。もう字面だけで胃もたれしそうです。プーティーン含めジャンクフードが安くておいしいのは本当に良くないです。おかげで5kgくらい太ったので絶賛減量中です。

愛しのプーティーンhttps://www.bhg.com/quick-poutine-6752680)。

ただ、基本的には3食自炊としていて、料理好きとしてはこれがいい息抜きになっています。移民が多いカナダの土地柄、多国籍スーパーはあふれるようにあるので日本食材・アジア食材は容易に手に入ります。醬油みりん酒味噌があれば和食はたいてい作れますし、オイスターソースと紹興酒、豆板醬と甜麵醬があるので中華ももってこい、コチュジャンとキムチも常にストックしてあります。薄切り肉が中華用のしゃぶしゃぶ肉しかないのが難点で、食材の値段も日本の1.5-2倍ほどしますが、物価を考えればそんなに悪くないです。平日の朝ごはんとお弁当は週末に作り置きし夜ご飯に好きなものを作って食べるシステムで、週末と平日夜のご飯が生きがいになっています。特に自分は食が心の状態に大きく影響を与えるので、作り置きやおいしいごはんは欠かせません。最近は手羽先のから揚げ(にんにく醤油タレ)にはまっています。

金銭事情

最後に金銭事情について触れたいと思います。

カナダはインフレ、特に家賃の高騰が深刻で、ハミルトンで1ベッドルームのアパートを借りようものなら$1500/月は覚悟しなければなりません。そのためルームシェアが主な手段になっており、相場は800-1000ドル程度、僕は運よく月800ドルの3人物件にありつけました。

この高騰に大学のTA賃金が追い付いていないのが大きな問題となっており、月1600ドルの収入で上記の家賃を支払わなければいけない状況になっています。これはTA賃金が10年ほど前の物価の基準から計算されて以降アップデートされていないのが原因であり、これを解消するため、TA労働組合が12月に3週間ほどストライキを行いました。採点業務や授業補助業務の一切をストップし、賃上げ交渉をしたというわけです。大学側は2週間何も反応をせず、3週間目にようやく妥協案の提示をしました。結果として5.7%の賃上げになりましたが、これは年収670ドル、月収50ドル程度にしか相当せずインフレに追い付いているとは言えないため、学生は大学側のオファーにも不満でした。が、ストライキを長引かせると自分の研究業務に支障が出るので渋々オファーを承諾したという感じです。

僕は大変ありがたいことに中島財団様からのお金で生きていけていますが、これがないと本当に最低限ギリギリの生活を強いられる状態になっており、自分の幸運さと院生として生きていくことの難しさを痛感した出来事となりました。

最後に

以上、カナダ大学院留学記でした。上記の通り、僕は中島財団様の支援で不自由ない生活が可能となっており、これは本当に大きなアドバンテージになっています。研究とは常日頃から頭の片隅で思考を練る営みであり、休みも昼も夜も関係ありません。ここに金銭の心配が入ってくれば当然研究の進みは遅くなりますし、栄養のある食事や趣味による心の休息を得ることも難しくなります。こうした障壁が一切なく研究をスムーズに進められているのはひとえに中島財団様のお陰であり、ここに最大級の感謝を記したいと思います。本当にありがとうございます。